山の神 本居宣長記念館
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今月の宣長さん
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十月の宣長


◇11月

 旧暦の霜月11月は、寒に入り冬も本番。手紙の時候のことばも「寒ニ入りことの外、冷え申し候」とか、「仰せのごとく寒冷の節」と変わってきます。
 



◇山の神のご馳走

  山の神のもてなしの様子が宣長の「日記」に記録される。
 宝暦9年(1759・宣長30歳)11月11日条には、

「当年、町内の山の神当番で、手前(宣長)と清八両家が相勤めた。朔日の夕方から5日の夕方に至るまで子ども宿を清八がこれを勤め、6日の振る舞いは手前がこれを勤めた。町内の子ども男女並びに伴まで、およそ35、6人。6日夕飯は七ツ半(午後5時位)時、献立は、飯、羮(あつもの)、ザクザク、鱠(なます)、平【山の芋・にんじん・ゴボウ】、あぶりもの【サワラ・ブリ】。酒は無し。菓子【小落雁・串柿・軽焼き】。同夜食、町内中に申し遣わす。人数は定めず。今晩はおよそ20人位が来る。献立は前と同じ。酒は3献。取り肴【蛸】。7日、終日酒。町内世話人は7、8人なり。吸い物一つ、取り肴1種」(意訳)
とある。
 この他、宣長の冠婚葬祭の記録からは、各々の行事の流れと、そこで用意された献立、つまり「ハレの料理」まで知ることが出来る。これは伊勢国の食事を知る上で貴重な史料であるにもかかわらず、ほとんど研究されていない。
 しかし、復元の試みはある。
 たとえば、宣長をもてなした伊勢の御師荒木田久老のご馳走は、松阪の老舗料亭「武蔵野」が、次女美濃の婚礼の献立は、やはり松阪の老舗料亭「八千代」によりその一部が復元を試みた。武蔵野の試みは、「鈴屋先生の「好物」」として『伊勢人』120号「宣長流ライフスタイル」(伊勢文化舎)に紹介された。美濃婚礼の食事は、『松阪に生きた宣長(まちじゅうがパビリオン松阪・本居宣長翁篇)』(伊勢の國・松坂十楽)に載る。
 だが、いくら調べても「柱餅」など皆目見当の付かないものもあり、また「日野菜」のように、近代の品種改良により昔の形が失われたものもあったりして、より幅広い研究が必要だろう。
 これは食材の移動の問題とも関わってくる。
 宣長はしばしば「十六島海苔」を献立に交え、逆に「蓮根」や「慈姑」の乏しいことに不満を漏らすが、輸送手段の限定された時代だけに、食材の地域性、また個人の交友による食材の移動も、そこからは窺うことが出来る。

>> 「十六島海苔」





◇山の神は大賑わい

 今も昔も、松阪の子どもたちの一番の楽しみ、それは「山の神」です。
 宣長の門人・服部中庸の『松坂風俗記』によれば、11月1日より、山の神祭りの準備に着手し、また子どもたちは山の神銭をもらいに、「山ノ神ノ銭ショ、オイワシコイワシ、銭ショ」などと歌いながら各家をまわる。これが5日まで続く。そして、祭り当日は、次のように書かれています。
「六日、山の神を祭る。一町に一所也。其町の会所、又は家々順番に当番有て、其所に祭るも有。社を正面にかざり、前に饅頭、蜜柑、海老、串柿、神酒、又白餅といふものを備ふ也。其社の戸びらを開きて、入口に立る人形有。これをしらもち喰といへり。又左右に竹を立、それに小判の形したる仙餅やうの物と蜜柑とを、こよりにてつりさげて立る。児共大勢よりて遊ぶ。町内打寄て、夜食を出し、酒肴を以て宴遊する。男子出生せしとしは、格別に祝ふ也」。
 また、『松坂権輿雑集』には、各町ごとに約20箇所に祀られていて、「霜月六日の夜児童集会し山菓、海老、生米、餅を供ず」とあります。
 魚町の住人であった宣長も生涯に何度か当番を務めています。 宝暦9年(1759・宣長30歳)11月6日には、町内の子供や大人35、6人も招き、食事やお菓子、また酒を振る舞いました。当日のにぎやかな様子は、宣長の日記に詳しく書かれています。
 三村竹清が松阪で採録した山の神の歌
「山の神さんは子供がお好きで大家も小家も御繁昌、笹葉をちぎれよさよさよさ」(「伊勢鄙事記」)。

 各町にあった山の神も都市開発で片隅に押しやられてしまいました。魚町山の神は幸にも同じ町内・長谷川家の庭園内で立派に祀られ、祭の日には子どもたちがにぎやかに参詣します。

長谷川家で祀られる魚町の山の神

長谷川家で祀られる魚町の山の神
 




◇御前講義

 65歳の宣長は、紀州藩主の招きで和歌山に出府します。初めて十代藩主・徳川治宝(はるとみ)侯に御前講義をしたのは、寛政6年11月3日で、講義書目は「大祓詞」(おおはらえのことば)でした。藩主から2間(約3・6m)と近くまで進み、そこから講義を行いました。講釈の図が残っています。

寛政6年和歌山城内講釈の図

 「寛政6年和歌山城内講釈の図」


 同月5日に残りを講釈し、6日には『詠歌大概』を御前で読みました。両書は、神道と和歌の基本文献です。講釈の評判は上々だったようです。

>> 「大祓詞」
>> 「講釈の評判」

 無事に役目を終えたご褒美として贈られたのが「板文庫」です。(現在展示中)
 藩主への講義に引き続き閏11月12日には、その祖母・清信院様への講義が行われました。たいへんな気の遣いようで、事前に宣長の好物、また嫌いなものはないか、酒は飲むか、菓子は食べるかと問い合わせがあり、また当日は寒かろうと宣長の左右、背後と三方に大きな鬼面の火鉢が置かれたと、同行した大平は伝えています。御簾の近くに鈴屋衣を着てめがねをかけた65歳の宣長が座り、その周囲を火鉢が囲むというちょっと不思議な光景です。この時のテキストは、『源氏物語』若紫巻と『古今集』俳諧部。清信院、宣長二人の共通の師であった賀茂真淵事も話題に上り、和やかな雰囲気の中で時間は過ぎていきました。
 


◇来訪者


 名前が有名になるにつれ宣長のもとを訪ねる人は増えてきました。奥州から九州まで、蘭学者に儒学者、僧侶に神官、有名無名、実に色々な人がやってきました。諸国の人からは貴重な話も聞けました。来訪者の記録『来訪諸子姓名住国并聞名諸子』(『本居宣長全集』20巻)をもとに、11月の来訪者を見てみましょう。
 寛政2年(1790)11月、京都滞在中の宣長の所へ出雲国(島根県)大庭村の神魂社神主・秋上得国がやってきました。秋上氏からは出雲大社と同社との深い関わり、また火切りの神事や因幡の白ウサギについての話を聞くことが出来ました。この時の話は、帰宅後『古事記伝』に加筆されました。

>> 「宣長を調べる楽しみ」
>> 「鈴屋訪問」
>> 「来訪者対策」

 また、寛政3年11月27日来訪した大和国(今の奈良県)の津久井尚重からは、市辺王の陵についての説を聞くことが出来ました。この時の話も手沢本『古事記』に加筆され、その後、『古事記伝』巻43顕宗(ケンソウ)天皇条で「或人の云ク」として紹介されました。
 寛政8年(1796)11月には珍しい人が来ました。狂歌師で浮世絵師の窪俊満です。肉筆美人画で知られる俊満は、確信に満ちた宣長の言葉を聞き、恐れ入ったようで、次のような狂歌を残しています。

「角もじの いせとしいへば かみ国の ひとの心は まけず玉しひ」。
>> 「窪俊満(クボ・シュンマン)の訪問」

 俊満の浮世絵に宣長が歌を書いた絵の写真を以前見たことがあります。


 
>> 「毎月の宣長さん」10月
>> 「毎月の宣長さん」11月


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