◇  幻の古道 壺坂道・畑屋越 #033

 奈良県大淀町の主催で、
「国学者・本居宣長の足跡をたどって〜幻の古道 壺坂道・畑屋越〜」
というちょっと面白いハイキングが企画されている。
 実施日は平成30年9月23日、この原稿を書いている日からは、少し先の話である。
 コースは、壺阪山駅出発、壺坂寺から畑屋へと越える道を歩く。
 宣長がこの道を歩いたのは、明和9(1772)年。それから246年という歳月が流れている。

 宣長の足跡をたどるイベント(ほとんどが『菅笠日記』のルートである。もちろん今回の企画もその日記に基づいている)は、よく行われているのに、
いったい何が珍しいかと言うと、
 実はこの道は、街道というより生活道といった方が良い道である。
 言わば、村と村を結ぶ踏み分け道で、人が通らなくなるとすぐにもとの獣道か山野に戻ってしまう運命にある。
 そうやって消えていった筈の道が、どうやら蘇ったらしいのである。

 明和9年の春、松坂を出発した宣長一行は、で吉野、飛鳥を中心に古跡を精力的に巡り、 また記紀、万葉を自在に使って考えながらの旅10日間の旅をする。
 充実した内容で、面白い。
 その後の、特に吉野、飛鳥巡りのガイドブックとしてもよく読まれた。

 この記録に基づき歩けば菅笠の後をたどったということになるかというと、なかなかそうはいかない。
  「管笠日記の道を歩く」と言う時は、もう少し限定して考えた方が良さそうだ。

 《管笠日記の道を歩く》

 「管笠日記の道を歩いた」というためには、二つの条件がある。

 第一条件 まずルート調べから始める。
 経由地はきちんと書かれているが、熊野古道や東海道のようにルートが定まっているわけでは無い。
 大部分が生活道なので、先行する記録を調べ、また地元の人に聞き、推定しながら、
絶えず本当の宣長さんが歩いた道かと問い続けなければならない。

 第二条件 歩いた道を、記録すること。

 難しいことを言うなあと思われるかもしれないが、目的はポイント間の移動では無く、歩いた道にあるので仕方が無い。

 二つの要件を満たしている最初の人は、新潟の石川義夫だろう。石川氏の労作は、このホームページ、『菅笠日記』図書館で紹介した。
  >> 1、『菅笠日記』について その5

 続くのは、高瀬英雄ご夫妻と、塩山博之氏の管笠日記を歩く会である。

 さて高瀬さんも塩山さんたちも、道は無いがとりあえず目的地にたどり着いたと記載されるのが、 旅も6日目、吉野から飛鳥への道、今回選ばれた畑谷越である。

 宣長の『管笠日記』には、

「これより壺坂の観音にまうでんとす。平らなる道をやや行きて、右の方に分れて、山沿ひの道に入り、畑谷などいふ里を過て、上り行く山路より、吉野の里も山々も、よく顧みらるる所あり。
 かへりみる よそめも今を 限りにて 又もわかるる みよしのの里
吉野の郡も此手向を限り也とぞ。下る方に成ては、大和の国中よく見渡さる。比叡の山、愛宕山なんども見ゆる所也といへど、今は霧深くて、さる遠きところ迄は見えず。さて、下りたる所、やがて壺坂寺なり」

 次に石川氏の記録を見よう。

「この道は、壺坂寺のすぐ下手に出る道である。江戸時代には、壺坂の里人や行者たちが、直接下市や下淵に出る時によく利用していたらしい。壺坂峠越えの道より近いからであろう。しかしかなり険阻な上に道も細いので、大正以後は通る人もなくなり、今は夏季など雑木・雑草が道を塞いで通ることができない」

 続けて氏は、普通なら柳の渡しの少し上手の出口、下流の新野、もしくは下流の土田からのルートが普通であると言い、「畑谷」という集落を通ったと書くのだから、わざわざ遠回りして、嶮しい道を選んだことは間違いないが、

「宣長がなぜ回り道で細く嶮しい道をわざわざ通ったのかわからない」

と書かれている。

 石川氏の時には通行困難ではあるがまだ道はあった。
 ところが20数年後(2004年開始)に挑んだ高瀬ご夫妻の記録には次のように書かれている。

「六田駅から柳の渡しまで戻って出発した。やがて土田。上市の方より きの国へかよふ道と 北よりよし野へいる道とのちまたなる駅也 であり構えの大きい古い家が残っている。ここから北にむかう。2km程で右にそれて山沿いの道に入る。ここまでは車の行き交う喧騒な道であったのでほっとする。ここでも壺坂寺への山越えの道を結局8人の人に問うた。皆口をそろえて言われるのは「ない!」であった。それでも行けるところまで行こうと進んでいった。畑屋という里である。小さな集落の入口に山から山へ長い注連縄が張ってあった。畑をしてみえた古戸さん母子に尋ねると「村に厄病や災害が入らないように張るものでカンジョという」そうだ。里は戸数は少ないが豪壮な家が並ぶ。林道から細い山道に入る入口を教わったのだがわからずさらに進む。山の高いところで仕事をしてみえた方を見つけて道を尋ねた。すると「道はこの上にありもっと下の池のところから上るがそこまで戻るのはたいへんだからここを登ってこい」といわれる。それならと草や木につかまりよじ登る。その西垣内康孝さんは「100mくらい行くと道が分かれる。左への道はとらず山を右に巻いていく道があった。私有林ならまだ多少人が入るがその先は国有林だから道はなくなっている。止めた方がいい。」お礼をいって行けるところまで見てきますと進む。確かに右に道はあったらしいがどうにも進めない。山の上には登れる道がある。それなら上に上り向こう側へ下る道を探そうと高度100mくらいの急斜面を登り山頂に着く。それから道なき道をさまよい、ようやく人家に辿り着く。そこはなんと壺坂寺であった。畑屋から悪戦苦闘すること3時間が経過していた。
  かへりみるよそめも今をかぎりにて 又もわかるるみよしのの道
吉野の眺めどころではなかった。」
>> 本居宣長・管笠日記:旅の途中

 高瀬ご夫妻から約10年後、2013(平成25)年9月28日(本番)、塩山さんたちも同じ体験をしている。

「畑屋を経て壺坂寺に行く道は「壺坂街道」とよばれていましたが、下見調査で畑屋集落の人に尋ねると「昔は道があったが、今はいけない」という返事です。行けるところまで行ってみることにしましたが、倒木と草木が行く手を塞ぎ、道が消滅してしまいました。仕方なく頂上の三角点を目標に山をはいずりながら登り、尾根筋に出ました。尾根筋を東側に進むと踏み跡が見つかり、山道を下ると壺坂寺にたどり着きました。しかし、「歩く会」の本番は、比曽・馬佐を経由する「代替えルート」に変更することにしました」

三角点を目指したとあるのでGPSを使用されたのだろう。

 今回のイベントでは、畑屋から壺坂寺に越えた宣長一行とは逆方向ではあるが、
峠を越える格好の機会である。
 また畑屋には道標もあると案内マップには記されているので、これも必見である。

 それにしても、これだけ根強いファンがいるのだから、注釈と地図を付け、出来れば文庫サイズの『管笠日記』を刊行したら、結構、需要はあると思うのだが・・・



2018.9.16 

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