◇ 禍津日(マガツビ)の神の荒び #007

「禍津日(マガツビ)の神の御心の荒びはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける」 『直毘霊』

 宣長の『日記』を読んでいて胸が痛むのは、災害の記事です。噴火や飢饉、大火、水害など、宣長は知り得た情報を短くまとめ記録しました。
 天明7年(1787)、天明の飢饉は最期のピークを迎えます。年が改まって天明8年、京都は前代未聞の大火に襲われました。その復興が一段落付いたかと思われる寛政4年(1792)にも、凄惨な記事が続きます。
 情報の伝達で記載は前後しますが、まず5月17日に大坂が大火。6月には、4月の九州の島原の噴火の惨状が伝えられました。

「四月朔日、肥前国嶋原大変。城辺の高山は裂け崩れる。火炎が出、大水が涌きだし、同時に海浪は城下に押し上がり、町家ならびに海辺の村十七か村悉く流失。右の分人数二万七千余人の内、存命は半分。是また多くはけが人なり。残りの分は流れ死ぬ。城大手門際まで崩れ、城内は別儀無し。城主松平主殿頭殿あらかじめ城を出て、近郷に逃れ存命」

とあります。
 7月の水害では、宣長の家も浸水しました。

「十三日、風雨大洪水。御郡奉行屋敷裏の堤切れ【十間ばかり】、右屋敷、町奉行屋敷、そのほか殿町御代官所辺まで水多く押し入り、大いに荒れる。御町奉行所門流失。魚町の上鎌田屋土蔵一つ流失。同家借家二宇潰れ。魚町三丁目まで水入り。二町目ことに甚だし。そのほか本町大手より下、中町半分余り。工屋町、紺屋町等水入る。瓦の薬師前上の方の堤切れ【少し】矢下小路へ水入る。岡寺の門柱の礎四本の下が流れ抜け、当家宅も水入る。床上一尺ばかり也。先年二十年以前の水入に四五寸ばかり低し。同日、海辺の大口浦より南方、志摩国鳥羽辺まで高波押し上げ、二見浦其の外民家多く流失。鳥羽城大いに損ず。北風故北方浦々は指したること無し。当邑の水入りは、申の刻から酉刻後に至る」

これは台風でしょうか。宣長宅は床上30センチの浸水で、時間は夕方でした。

 松坂の地名は、
「宣長さんの松坂地図」で確認してください。

 宣長の住む魚町一丁目は坂内川河畔の町。すぐ上手の殿町、今の松阪市役所裏の堤防が決壊し水は町を洗いました。沿岸部の被害は甚大だったようです。
 また、同月21日に江戸で大火事があったと言う話が聞こえてきました。
簡略な記載だけに、かえって天変地異の恐ろしさが伝わってきます。

 200年後の今、文明はずいぶん進みましたが、私たちの生活が脆弱な基盤の上で営まれていることに変わりはありません。悪の帝王である禍津日(マガツビ)の神の暴虐には抗うことは出来ないのです。
 宣長は国学の大成者だと言われます。
 「大成」とは、単に契冲と真淵の学問を融合し進歩させたというだけでなく、社会的な責務を果たすことが求められるほど成熟したということでもあります。人々の安心、社会の出来事や外交など、身の回りのこととも積極的に関わる学問となったのです。
 不条理から目をそらすことはできないのです。

 3月11日、東日本で大地震がありました。痛ましい惨状が今も続々と入ってきています。
 罹災された皆さまに、心よりお見舞いを申し上げ、いち早い復興と平安を祈っております。



2011.3.15

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